東京のうなぎ1

うなぎと言えばうちのひいばあさんである。百歳の天寿を全うした美馬旅館三代目女将、夘子(うし)は丑の日になると階下の調理場へおもむろに現れ「今日は丑の日じゃが」と呟いて催促するほどの鰻好きであった。

私も曽祖母譲りのうなぎ好きだが、高知の鰻は蒸さない関西風であり、四万十川の流域とは言えすでに数十年前から天然物は滅多に口に上らず、養殖もので育った私にとって、うなぎと言えば甘辛く弾力のある食い物であり、東京で初めて江戸前の鰻を食った時は実にカルチャーショックであった。
爾来、江戸前うなぎを究めようとは思いながら、昼夜芝居を観て回る私にとって、上等の鰻屋の営業時間はあまりにも短く、歌舞伎座、新橋演舞場にほど近い「竹葉亭」に通うくらいで、その他は長く宿題となっていた。

ところが先日、東京展を無事終えた翌日、図らずも名店中の名店を訪問する幸運に恵まれた。

「山の茶屋」


私にとって、インプットはしているが未だ辿り着いていぬ「絶対に行かなくてはならない店」の一つ。

グルメブームも爛熟期に入った今日、名店でありながらマスコミに登場しない店、と言うのはほとんど稀有である。
先日ついに、築地の名料亭「新喜楽」が雑誌において座敷の写真を一般に公開した。
芥川賞、直木賞の銓衡会場として名を知られながら、一般人にはその姿を見せた事のなかった明治以来のしのび座敷が、ついにヴェールを脱いだのである。

そんな時代に、東京のど真ん中で「知る人ぞ知る」と言う商売を、しかも昔に変わらぬ形で続けていく事は、至難と言うより不可能に近い。
それをやっているのが「ここんち」である。

東京展の会場であるキャピトル東急から歩いて数十歩、日枝神社の山懐に位置する数奇屋建築の佇まいは、ほとんど奇跡と言う他はない現役の姿を保っている。
数え切れないほどこの門前を通っていながら、「遠藤通用口」という表札は目に入っていても、茶屋の玄関自体は全く目に入っていなかった事に今更ながら呆れる他はない。
遠藤、と言うのはここんちの主人の名であり、河東節御連中にその名を残す「遠藤さん」の「山の茶屋」である。
私たちの稽古場である新橋の叶家に、十一代目團十郎襲名の時の記念写真がある。
そこにズラッと居並ぶ旦那衆は、皆それぞれに小唄、長唄、清元等の音曲を一通り仕上げた、言わば大卒の旦那であり、我が師山彦節子が「河東節は邦楽の大学院」と言う言葉そのままの「通」の集まりであった。その通人の遺した茶屋。




玄関は静けさの中に風格を感じさせ、門をくぐると避暑地の別荘に迷い込んだ様な錯覚を起こさせる。


広間小間を合わせて四室のみ、カウンター無しの座敷商いであってみれば、当然一人客は受けず、最低二名からである。
この日は朝から午後二時まで用が無く「今日をおいて山の茶屋を訪問する日は無い」と思い立って電話すると、当日にもかかわらず「三十分ぐらいしたらどうぞお越し下さい」とのこと。
喜び勇んで予約はしたものの、連れ無くては叶わぬ。が、そこは定宿の気安さ、キャピトルの担当T氏を誘うと嬉しや昼飯はまだだと言う。しかもお膝元のこの茶屋をまだ知らぬと言うのでこれ幸い、ともに初見参となる。一昔前まで、常連が若いホテルマンを老舗名店に連れて行き、飲み方遊び方を伝授する、などと言うのはごく普通の、実に良き習いであった。
そんな御身分でもないが、まあ「旦那の真似事」である。

二階の小間に通される。建物全体から風格が滲み出ている。流石に京都にはまだまだ有るが、東京でこうした座敷はもはや稀有であり、東京遺産と言っても過言ではない。


ぴかぴかに磨き上げられた漆の飯台、灰皿一つにも好みの良さが見て取れる。


期待に胸をふくらませながら待っていると、ひと品目の胡麻豆腐が運ばれて来る。これは魚肉を出さぬ精進のそれとは違い、しごくあっさりしたもの。


二品目は肝焼きである。浅草「初小川」などに比べるとごく小ぶりで、ホンのひと口であるが、高級店のコースの一部であり、これはこの形が至当である。苦味も少なく食べやすいが、こう来ると矢張り酒が欲しくなる。後に仕舞の稽古が控えていたので流石に飲めず、茶で辛抱す。


さて、次に供される白焼こそ、この店の白眉である。「白眉の白焼」
「白焼」と言うものを、私は二十歳過ぎて東京で食べるまで知らなかった。ここ十数年であろうか?高知で「白焼」と言う品書きがボツボツ出始めたのは。

これを知ってからは鰻屋へ来ると何ぞの様に白焼、白焼と食って来たが、ここんちの白焼は全く別格である。まずその姿。串に波打たれた形といい、お定まりの山葵醤油でなく塩を添えて出して来るのといい、実に無類である。
私が「うーん」と唸り声を上げると、老練の仲居が「食べる前に唸らないで」とダメを出す。普段なら「客にタメ口聞きやがって何だ!」と怒るところだが、この場合は初めて来た若い客、それもこの家の造作や何かに「凄いね、いいねー」と敬意を表している若造に対する好意的コミュニケーションと受け取る。
大体に於いて東京の老舗の女店員と言うものはぞんざいな物言いをするのが多く、初めはこれを高飛車で無礼だと感じていたが、実はこれは「江戸の名残り」ではないかと私は見ている。いわゆる「ざっかけない」客あしらいなのであり、悪意は無いのである。
むしろ京都の名店で「慇懃無礼」と言うあしらいをされた時の方が、「人間として」ムカつくのだが、こういう微細な事はシェークスピアは書いてはいない。

さて白焼へもどる。炭の匂いも芳ばしく、淡白な中にも艶艶と脂を纏わらしているのへチョチョイと塩をつけ(ここで、いとこい師匠なら「ほー、鰻はチョチョイですか?チョチョチョイではあきませんか?」「どっちゃでもええ!」となる)、カプッとやる。その味たるや、私の味極道のうちでも十指に入る絶佳であり、食べている最中から「また食べたい!」と思わせる逸品である。
コースのみなので融通は利かぬ様だが何、通っている内に白焼のお代わりくらいはやってくれるであろう。次回は是非夜を予約してこの白焼でじっくり飲みたいと思う。


最後に蒲焼が出される。これは他店と比べてどうこう言うには私の経験値が足りぬので十分に評し得ないが、身は柔らかく甘さをおさえたタレは正に江戸前うなぎであり、おそらく当今の最上レベルだと思う。肉の無い江戸の昔、鰻は最高の御馳走でありスタミナ源であったろう、などと思いを巡らせながら、固めに炊かれたご飯を何杯もお代わりする。この飯を入れる木製の器を高知や関西では「おひつ(櫃)」と言うが、東京は「おはち(鉢)」と言う。
お鉢が回る、と言うのは本来待望待ち久しいチャンスが巡って来た事を言うのである。

それにしても、酒が有れば話は別だが、お茶で「蒲焼と飯」は私にはどうもしっくり来ない。どうでも「うな重」にし、タレのからんだ飯と鰻を一緒にかっこみ、最後に重箱の隅をつっついて、いささか下品に、スピード感を持って食いたいのである。


満腹なっての水菓子は早成りの西瓜。この「水菓子」などと言うのも如何にも日本人の美意識を感じさせる言葉だが、料理屋文化の衰退とともに半死語となった。いやだねえ「フルーツ」なんて。ちなみに私は東京の稽古場で「おあま」と言う言葉を覚えた。これは今の「おめざ」の先祖の様な言葉で、つまり「スウィーツ」の事である。

さて最後にこの家の女将である。仲居より遥かにへりくだった態度で挨拶に出て来た時、私は一瞬で「あっ、この人が女将だな」と分かった。着ている物は仲居とそう違わぬ絣の着物であり、「私が女将です」と言う様な振る舞いは微塵も見せぬが、色白の柔和な温顔にデンとした矜恃がある。全ての実社会、勝負界に通ずる「自分が強い事を知らぬ者の自信」と言うものを、この人は纏っている。
食事も終わりに差し掛かった頃「私は河東節をやってまして」と言うと驚き、更に遠藤さんの名を出すと感じ入って「父です」とのこと。年齢から言ってお孫さんくらいかと思ったが、してみると遠藤さん晩年のお子さんか、または嫁いで来た人でお嫁さんであろうか?

女将から含まれて会計にやって来た仲居は、さっきまでとは微妙に違った物腰で「そうなんですってねえ。是非またいらして下さいましね」と言った。「ネット見て来たただの兄(あん)ちゃんじゃなかったのね」と言う顔で。
私も「もいっぺん来ればお馴染みだから」と言って再訪を約した。連れになってくれたT氏も「大変勉強になりました」と喜んでくれ、実に気分の良い昼のひとときであった。

首相官邸や議事堂のすぐそばに、こんな店がある事を多くの東京人は知るまい。
残したい、残って欲しい名店である。
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