祖母を偲ぶの記

今日は亡き祖母の十七回忌であった。

祖父母の面影というものは人によって随分と差があるものだと思うが、祖父とは小さい時から半同居、また祖母とは晩年から同居であった私にとって、夏休みにだけ会う優しい祖父母でもなく、さりとて四六時中寝食をともにする家族でもなかった。

が、それだけに、この二人が私に与えた影響はかえって大きく、いまだにその陰影を引きずっていると言っても良い。

祖母は、およそ「欲」の無い人であった。

そのかわり、他者に対して時おり厳しい批判の毒矢を吐いた。

それは、ある種捨て身の、己の立場を明確にし、また返す刃で斬られる事を毫も恐れぬ強い生き方であった。

彼女が最も多用した土佐弁に「あやかしい」というのがある。

この一語に、その人となり、生きた道、その壮絶な死に様まで、全てが一貫して集約されている。

「あやかしい」とは、世の中の、色々な嘘、脚色、美化などを瞬時に見破り、看破し、一刀の元に斬り捨てる痛快な言である。

そこに、くだくだしい説明、説得は要らぬ。

「話し合い」などという、戦後民主主義の最たる悪弊の出る幕は、一切無い。

ただただ、瞬間の、本能的な判断である。

この点において、高知の自民党の重鎮として長く議員生活を送った祖父は、遥かに及ばなかった。

その意味で、祖父は実に人を見る目が無かった。

それに対して、高知県の東部、安芸の老舗旅館に生まれた祖母は、そのおおらかな土地風や曽祖父の影響から、生涯に亘って「人を見る目」を持ち、本音の人生を貫いた。

こんなエピソードがある。

私が二十歳過ぎの頃、我が家で同級生が集まって飲んでいる時、その中の一人が「おばあちゃ〜ん」と手を振って寄って行った。

並の婆なら「まあ、こんばんは」と社交辞令で遣り過すところだが、彼女は咄嗟にこの女の「あやかしさ」を瞬時に看て取り「あんた誰?」とピシャリとはねつけた。

その時は一座の笑いのネタになったが、それから数年後、祖母の見る目の確かさに舌を巻く事件を、この女は起こして消えた。

祖母はまた、激動の人生の中で「自分の体をいたわる」などという発想を全くといって良いほど持たなかった。

明治生まれの曽祖母でさえ、養命酒なぞを飲んでいたが、彼女は全くそうした事に興味がなかった。

だからこそ、曽祖母は百まで生きたが、祖母は七十四で死んだ。

この欄の読者なら、私が常日頃から昨今の「一にも二にも健康、長寿」という思想に、不快感をともなう批判的感情を持っている事は百も承知だろう。

その源泉はここにある。

私は、当時でも若いと言われた祖母の享年に、思いは残るが不満は無い。

嫁を娶った時「あと数年生きていてくれたら」と思った事もある。

しかし、それはこちらの勝手な「欲」であり、そんな事を言い出したら、ひ孫も玄孫もという話になる。

これは、残ったものの勝手な夢想である。

逆に、生きていればこう言った、こういう顔をした、という事が、ハッキリと目に浮かぶ。

つまり、霊界とは通信が出来ているのである。

祖母は、決して情がなかった訳ではなかったが、その表現が殊更にサッパリしていた。

一の事を言葉で十にも二十にも拡大する、などという事はこの人の人生哲学には無かったのである。

ただ一つ、身内に起きた心の病については最後まで認めようとしなかったが、あとは全て、明快、颯爽、恬淡を通した。

人の一生というものは、何が幸せか分からない。

が、私は祖母の面影を偲ぶにつけ、闇雲な長生きが幸福とはどうしても思えぬのである。

そう言えば祖母は、誰だか忘れたが、自分とさほど歳の違わぬ老人の見舞いに私を連れて行った時「勇作、ここにおったら具合が悪うなるき早よう帰ろ」と言った。

若者が言えばとんだ問題発言だが、老人が言った途端に、核心を抉る文明批評になる。

ここが、凄いところである。

祖母は、ある夜息苦しさを訴え、階下の中庭の窓際まで降りて来て、必死に息を吸うた。

そうして、病院へ運ばれて生きるか死ぬかのさなか、当直の若い医者に「便が黒い時とか無いですか?」と問われ「そうですね、あれを食べた時は黒いですわね、あの、ほら…」

「ヒジキ!」

などと、まさに悲喜こもごもの珍名言で笑わせながら、キッパリと入院を拒否し、我が家で残り一ヶ月の生を全うした。

最期の夜、祖母は二階の廊下で、トイレに行く途中、バッタと倒れ伏した。

よほど一気に倒れ込んだのであろう、その眉間にはまさしく早乙女主水之介を思わせる天下御免の向こう傷が刻まれていた。

祖母は、孫の嫁も見なかったが、そのかわり、自分の信念通り、宣言通り、誰の手も煩わせずに逝った。

その斃れ方は、まさに、確信的自発的即死とでもいうべきものであった。

私はこの時、京都出張から帰る数時間前であり、臨終には間に合わなかった。

悲しい、というよりはむしろ腹立たしく、先に集まっている弔問客にお定まりの悔やみなぞ言われるのを断乎として拒否すべく、わざと足音を蹴立てて廊下を踏み入り、白い布を被った遺骸に対面した。

およそ、普通の孫と祖母の別れのあり方ではない。まるで、四段目の由良之助である。

まさに、私のハラは「委細、承知」であった。

そして、家人が聞いた祖母の最後の言葉は

「勇作はまだ帰らんかね?」

であった。
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