巨星墜つ

新聞各紙の見出しにある通り、月並み極まりない言葉だが、この言葉以上にふさわしい言葉が見付からない。遂に、森繁が死んだ。

思えば、何年も前から体調を崩すたびに冷やっとし、元気な姿を見てはホッとひと安心していた、私にとって山田五十鈴先生を別にして昭和芸能史の最後のビックネームが、とうとうこの世からいなくなってしまった。
覚悟はとくより極めたれども、訃報を聞いた後、車の中で一人になった瞬間、不覚にも涙が零れた。
森繁の本当の値打ちが分からぬ輩から、葬式爺さんなどと揶揄されても、とにかく生きているだけで嬉しかったし、希望だった。
宇野千代は、私って死なないんじゃないかしら、と言ったが、私はこの十年、森繁って死なないんじゃないか、という希望的幻想を抱いていたのだ。
月並な芸界からのコメントの中で、黒柳徹子の「皆さんは96歳で大往生とおっしゃるけど、森繁さんはもう一花も二花も咲かせたかったんじゃないかと思います」という言葉だけが心に残る。
断じて私は森繁を見飽きたりはしない。もっともっと色んな森繁を見たかった。

思えば高校一年の五月、初めて芝居を観に上京した私は運よく「屋根」の最終公演に間に合った。感動し、以後の芝居遍歴の土台にもなった。
その後初めて楽屋を訪ねた時の事は23年後の今もはっきりと憶えている。高知空港で買った季節外れの西瓜を持参した初見参の私に、よほど機嫌が良かったのか森繁は色紙を二枚も書いてくれた。
一枚は知床旅情の歌詞、そしてもう一枚には「ああ青春の今かゆく暮るるに早き若き日ぞ」
「今がじゃなくて、今か、分かるかね?」と念を押された。私は中高通して古典の名物教師の平岡先生の教え子だったので「ぞ、なん、や、か、こそ」はお手のものだった。「はい、分かります」と答えた。

その後もずっと私の森繁遍歴は続き、毎週下宿のラジオで聞いた日曜名作座は、その頃の私の心に空いた漠然とした不安や、遣り場の無い青春のもどかしさを、切なく埋めてくれた。文豪の名作ももちろん良かったが、川崎長太郎の「抹香町」を聞いた時は、それまでの人生で味わった事の無い、しみじみとした感動を覚えた。大げさに言えば、きれいごとではない人生の苦味を、それでいいんだ、いや、それこそ本当の姿なんだという事を教えられた。この人の本領はこういう所にある、と思った。テレビでは勝新に付き合った座頭市の二作が私にとっての最高作だ。まだある。歌手としての森繁久弥の真骨頂を示すのが幻の名曲「フラメンコかっぽれ」だ。説明しようがないので聞いてもらうしかない。とにかく無類の傑作である。淀川さん調で言うなれば、マルチとはこれ!である。幸いにこの人はデビューが遅く(映画初出演は山田五十鈴第二の黄金期の主演作「女優」の端役である)ほとんどの仕事がビデオ等で残っているから、肉体は滅んでも、まだまだ森繁ワールドは健在である。

昭和を彩った大スターの中で、気が付けばこの人ほど醜聞に縁の無かった人は無く、随分金も稼いだだろうが、芸道以外には目もくれず、第一身内から不祥事を出した事が無い。これはただ事ではなく、森繁久弥という人の見識の高さを雄弁に物語っている。
森繁は上手い、けどくさい、という人がいる。そんな人は宝の山を目前にして、最後の扉を開けずに帰ってしまう大戯けである。
家元談志は言った。「明治この方、歌舞伎も何もひっくるめて、誰が一番うまい役者か、ズバッと言います、森繁久弥です」
稀代の名評者の名評である。

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