朝青龍によせて

ちと間が開いたが朝青龍である。
私は世間が品格だなんだと騒いでいる最中、そんな事より気になって仕方のない事があって苛ついていた。

今回の騒ぎのずっと前から気になっていた事だが、本来日本語で人物や現象の大きい事を形容するのには、「おお」と言って「だい」とは発音しないのが普通である。「おお歌舞伎」「おお看板」「おお師匠」など。しかるに、現今のテレビ報道(何がメディアじゃ!この言葉、かの田中真紀子が広め、定着させた事を誰も指摘しないのが不思議)は「だい横綱」という。そしてオリンピック等の大きな競技、試合を「だい舞台」。聞くに耐えぬ。

どっちでもええやん、と思うたらおお間違い。「だい」には物量的な尺度があり、「おお」には精神的な物差しがある。身長三メートルの巨人じゃあるまいし、「だいよこづな」なんて冗談も休み休み言って欲しい。今に「だい一番」「だい勝負」「だい銀杏」なんて言いだしかねない。しまいに「だい相撲」になるんじゃないか。

これこそが、大きい事は良い事だ、という高度成長以来の日本人の不見識の最たる悪幣であり、三等国に成り下がった所以である。言葉は時代と共に変わる物、その事自体に異論は無く、ら抜き言葉等には寛容な私(現に土佐弁はもともとら抜き言葉で食べれる、見れると言う)も背後にある精神を全く無視したこのような改悪には断固として反対するものである。

ただし勧進帳の弁慶は言う「あら有難の大(だい)檀那」
つまりこれは仏教の方から来た言葉で、仏教関係の言葉は当然「だい」が多い。しかし芸能(私は相撲を芸能ととらえている)の方ではどうしても「おお」でなくては困る。「おお芝居」「おお立者」「おお一座」である。

それともう一つ、昔から気になって仕方がないのが、マスコミが歌舞伎役者を称する時に「市川さん」「中村さん」というあれである。聞く度読む度に違和感を覚える。ひばりの事を「美空さん」というのも同じ手合いである。大学出の物知らずの典型であって、融通の利かないマニュアル人間の最たるものである。無知、というより感性が無いというしかない。

歌舞伎役者にでさえそうなのだから、二十年近く前、地元紙に載った山田五十鈴十種「女坂」の劇評のタイトルに「陰影見せる五十鈴」と有った時には、新聞記者(専門の劇評家の署名記事ではなかった)にも事の分かったのがいるじゃないかと思わず嬉しくなったのを覚えている。

こんな事書いて頷く人、日本に何人いんのかなあ。

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