私のいきつけ9 稲ぎく

いよいよ真打ち登場である。

私のいきつけの中でも別格官幣大社の位置づけにある名店中の名店「稲ぎく」。

まず名前が素晴らしい。赤坂の高級料亭の様だ。

しかしてその実態は、この上なく庶民的な食堂である。

大将は中華料理店で修行をしたらしく、メインは中華メニューである。が、とんかつや焼魚定食もある。

しかしこの店で私の食べるのは一品のみ。それは「冷麺」である。

私にとって「冷麺」という料理がどうしてここまで心を捕らえて放さぬのか、今日はひとつじっくり考えてみたいと思う。

まず第一に「季節メニュー」であるということ。
一年中何時でも食べられる物よりも、その季節しか食べられない物の方が有難いに決まっている。

中でも「夏」というのは食の世界では特別の季節である。

氷が将軍献上の超贅沢品であった江戸時代には、夏場に冷たい食い物というのは存在しなかった。
だからこそ井戸で冷した西瓜なぞが庶民にとって精一杯のひんやりとした食べ物であり、素麺や心太などがあったにせよ、冷凍冷蔵庫が無いのだから、現代人からすると生ぬるいと感じる温度で食べていた訳である。

もちろん冬場には冷たい食い物を食べようと思えば出来たわけだが、今より遥かに寒かった昔、そんな物は旨くもなければ第一体に悪い。

それに対して火をおこす術は太古から持っていた訳だから、熱い食い物というのは何百何千年も前から存在した。
冬場に熱い汁物や茶であったまる、という行為は一般庶民の間でもごく当たり前に行われて来た訳である。

つまり「夏場に冷たい物を食う」という行為は人間の歴史の中でもごく最近、たった百年足らずの物であって、将軍様でも出来なかった贅沢を我々は毎日しているのである。

当然そこには「夏だからといって冷たい物ばかり食べると体に悪い」という医学的批判も生じるし、ましてや原発事故の起きた今、電気を使いたい放題使って夏に冷たい食い物を貪るという行為には文明的批判も当然起こってくる。

だからこそ、夏メニューを食うのには、より有り難く、怠りなく戴かなくてはならないのである。

その中でも「冷麺」というのは特殊なのである。何故ならば、夏しか採れない魚や野菜と違って、冷麺の材料というのは一年中存在するのであり、作ろうと思えば真冬でも作れるのである。しかるに、いかなる店でも冷麺という物は五月から九月までの期間限定である。ざるそばは年中有るのにである。

何ゆえ冷麺は夏しかやらないのか!
昭和50年の冬のある日、このいわれなき「差別」に憤慨して立ち上がった物好きがいた。

ジャズピアニストの山下洋輔が、作家筒井康隆や中州産業大学教授タモリを糾合し、「我が国において一部誤った社会風潮によって冬季に冷し中華が食べられないという誤った習慣に一石を投じる」ため「全日本冷し中華愛好会(全冷中)」なる会を結成したのである。

そして「冷し中華祭り」を第二回まで開催したが、敢えなく解散の憂き目に至っている。

ことほど左様に「冷麺」を通年食べるという事は困難な事であり、逆に言うと冷麺こそは夏メニューの王者なのである。

冬でも食べたいくらい好きなのに、夏しか食えない。ここがミソである。

その「冷麺」に於ける私の一番店、それが「稲ぎく」である。随分遠回りしたが、本題に入る。


まず冷麺のタイプを分けるのは何といってもタレであるが、私は胡麻ダレは好まない。
せっかく涼を求めて食うのだから、ねっとりとした甘ったるさは御免である。キッパリと、酢醤油ダレに限る。ここのは甘さ控えめ、しごくさっぱりで言う事なし。

そして肝心の麺である。これが極上。高級中華料理店でも中々行き当たらない程のツルツルさで、たまらないのど越しである。

具がまた良い。卵、キュウリ、ハム、トマト、サニーレタス、そしてカニ。このカニが良くあるちょっと生臭い様な「プーン」だった日にはぶち壊しだが、ここのは全く臭みが無い。

野菜類もいつ食べてもみずみずしく、シャキッとしている。
サニーレタスなどという物は飾りみたいな物で、普通はあんまり美味いと思わないし、切り口の茶色になったのやら、ベチョになったのが出て来たら即、器の端へ退去させるが、ここのは実に新鮮、清浄である。
そして酢ダレの風味が残った口中へ含んで噛むと、ぷぁーっと甘い香りが発生する。

そして温度。当たり前だが、冷えてない冷麺なんて物は食えた物ではない。
素麺やざるそばでも、夏場に生温い水道水で洗っただけのを出す店があってがっかりするが、冷麺だけはどんな事があっても氷水でしめて貰わなくてはならない。
ここはもちろん文句無しに冷えている。

最後に薬味。定番の辛子の他にピーナツバターが添えられる。これを辛子と交互に、またはミックスして麺や具に絡めていく。
アクセントにもなり、自分が最後の調味をする楽しさ嬉しさがある。

ここは誰に教わったのでもなく、まだ店を持たぬ時分、市内を車で回っていて名店の匂いを嗅ぎ取り「ここは絶対イケる」と踏んで飛び込んだ、大当りの一軒である。

決して目立たぬ裏通りにひっそり佇むこの名店を、まさに自分の足と鼻で発掘した事を、私は無上の悦びとし、いささかは誇って良いと自負している。
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