場を得るということ

三日間の記念展を終え、さすがに疲労困憊。昨日は何ヶ月ぶりかの休みを自宅で何もせず過ごす。

溜まっていたビデオを見、やっと「仁」を完結させる。

縁あって龍馬役の内野さんの土佐弁を多少手伝った(と言っても何度か朝まで土佐弁を喋りまくりながら飲んだだけだが)にもかかわらず、ちょうど気ぜわしい時期に重なり、ついつい録り溜めてしまっていた。

あらためて、やはり近年の名作だろう。

いささか期を逸したが、私の「仁」考を少し。

私は大沢たかおと言う人はまったく好みの役者ではないが、この南方仁役だけは「参りました」と降参せざるを得ない。

なりきっている、というのはああいう事だろう。

だからこそ、彼は映画化を敢えて断り、このテレビ版パート2で打ち止めにした。

一人の役者にイメージが付き過ぎる事の怖さは、誰よりも寅さんが雄弁に物語っている。

このフレーズを使う度、市川崑監督「犬神家の一族」(もちろん76年角川映画版)に於ける、怪優三谷昇演じるところの、藤崎鑑識課員が「従って、そこにいらっしゃる方が佐清さんに違いないっていういう事は、この二つの手形が何よりも雄弁に物語っているのであります」と言うセリフがリフレインされる。

お話戻って「仁」。

後編のお手柄は佐藤隆太と桐谷健太である事に大方の異論はあるまい。

佐藤は彼がデビュー当時、オーディションを受ける様子を追ったドキュメンタリーをNHKで見て以来、この男は絶対伸びて来る、と睨んだ通り、着実に成長し続け、今作でまさに一皮剥けた。

最終回の自決前の憂いを含んだ表情は役者として一つの到達点である。

桐谷はタイトルの序列からしても若太夫扱いだが、抜擢に応えて成果を出した。

小賢しくなく、直球の芝居がこの人の持ち味である。

無論、準主役の内野、二大ヒロインの中谷美紀、綾瀬はるか両女の健闘は言う間でもない。
ことに綾瀬の息の詰んだ求心力と健気さは現代では特筆に値する。

全編通じていささか頼りない感のあった小出恵介が最後に当てた。

これが狙いだったとすれば恐ろしいが、役どころからしても、やっと高まったという所だろう。

最後に脚本家に賛辞を贈る。

殺伐とした現代、人の心に響き、共感を得るファンタジーを書き、成功させる事は絶対に必要だが、なかなかに難しい。

それを森下佳子はやった。この人なんと私と同い年。しかしあちらは東大宗教学科卒。

言葉の選び方が尋常ではない。自分の余命を悟った南方に、凡百の脚本家なら「自分の命を無駄にしたくない」と言わせる所を、「自分の命を少しでも意味のあるものにしたい」と言わせる。

この「どっちでも意味は同じ」と大多数が考える所に拘り、譲らない徹底が、全編をリアリティーあるものにしている事を分からないながら、人は引き込まれているのである。

この人はひょっしたら森本薫の信奉者ではなかろうかと思わせるほど、デリカシーのある、用意周到な科白である。

しかして「仁」を見終え、今日は予約が有ったので重い体を引き摺って出勤。

昼イチで日頃からお世話になるお茶の先生が、片道三時間半掛けて通って来るという当今信じ難いほど熱心な男性のお弟子さんを連れて御来店下さる。

来月末に控えた茶会用に、御召と袴の一揃え、本番に備えて着馴れるための紬、それに普段の稽古用にシルクウールを誂えていただく。

生真面目を絵に描いた様なポロシャツとズボンを纏った姿は、お世辞にも現代風イケメンとは一線を画す彼だが、採寸の為に私の着物と袴を着付けてもらうと、見違えるほど立派であり、いい男振りである。

これだから着物は凄い。

夕方には先日、十一月のパーティー用の付下を決めて下さったお客様が、ドンピシャの帯が入ったと言う私の電話にすぐさま駆け付けて下さり、一目で気に入り、即決。

センスの合うお客様は、まことに話が早い。

夜は久々に修行時代からの譜代の恩客様のお宅を訪問。末の娘さんにお孫さんが生まれたとの事で、初着を持って参じる。

ひょんな事から、同居している一番上の娘さんの二人のお嬢さんにも作って上げよう、という話になり、結局四つ身三反、帯、襦袢など御注文いただく。

何やかんやで一日で細々合わせれば十五点の受注。有難いと言わざるを得ない。

昔の呉服屋って、毎日こんなんだったんだろうな、などと思いつつ、若男、年増、子供、赤子と、ヴァリエーションに富んだ一日であった。

0歳から旅立ちまで、全ての節目に立ち会える商売。まことにやりがいのある最高の世過ぎではある。
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