私の黄門

42年続いた「水戸黄門」が終わった。

思えば小学生の頃、東野黄門の大ファンで、改編期に放送される特番「4月だよ、ならびに10月だよ全員集合!」に、他のレギュラーは出ているのに、東野御大だけが出ていないのが寂しく、物足りない気持ちで観ていたのを思い出す。

歴代キャストにも多少の思い入れがあるが、私は変わり者ゆえ、助角にはあまり興味はなく、風車の弥七の中谷一郎(この人はある意味ミニ渥美清である)とその女房役の宮園純子、はたまた第一回と最終回にしか登場しない柳沢吉保役の山形勲に特別の愛着があった。

黄門役は無論東野英治郎が「漫遊」という言葉を一瞬にして具現するあの「カーッカッカッカッ」という笑い方と、庶民に「やつして」(うちの店の電話番号、8245298やつしのごふくや、を説明するのに三位中将維盛など引っ張り出さずとも、水戸黄門がいた!とこれを書きながら今初めて気付く)、悪役の代官に「田舎爺いめが何をほざくか!」と言われるリアリティーにおいて他を圧倒する(東野は日本一農民の似合う顔と言われた)が、西村黄門の上品な銀髪姿も二代目としては奇跡的なヒーローの在り方であった。
名物ドラマというものは主役が二代目になるとガクッと落ちるものだが、西村晃は見事にそのジンクスをはね除けた。それどころか、東野黄門にはない高踏さ、慈愛(虐げられているヒロインに向ける時の、あの様に優しい眼差しというものを私は他に知らない)、大大名たる御三家らしさを表して無類であった。

黄門論からいささか踏み込み過ぎるが、私は西村晃という人は日本の俳優の中でも十指に数えるべき名優だと思っている。

戦後の名作映画で見せた悪役の、姑息さ、狡猾さ、下品極まりない、男の風上にも置けぬ下卑た男の数々を演じて右に出る者の無かった優が、晩年黄門を持ち役として世間一般に愛された事は、不思議な様で実はそうではない。

西村と並んで私の愛するもう一人の非東映時代劇系悪役に小沢栄太郎がいるが、西村と小沢を比ぶれば、その違いは歴然たるものがある。

つまり、西村には色気があって、小沢には無い。

つまり、小沢栄太郎的悪役は兎に角「意地が悪い」のであって(大河ドラマに出演していた時、あまりの憎々しい演技に視聴者から「あの坊主早く殺して!」という電話が殺到したのは有名な話である)、西村的悪役はズル賢いが妙な色気があり、「憎めない」のである。
知る人ぞ知る東映の佳作に「山麓」があるが、淡島千景演じる妻の不貞(プラトニックなものだが)をカタに、モーテルのベッドの上で愛人を横にしながら姑役の山田五十鈴に強請まがいの電話を掛ける男のいやらしさは余人をもっては代えられない傑作である。

脱線したが最終回の黄門である。
何年ぶりかに観た黄門は、私の黄門とは似ても似つかぬものだった。
第一に当今当たり前になったハイビジョン。冗談ではない。
昔の役者より遥かに器量の劣る役者を、はっきりくっきり見せられたんでは観る方は堪らない。

役者たちより背景の羊歯の群生の緑の方が綺麗に見えたらテレビドラマも終いである。
役者から文句が出ないのが不思議でたまらない。もっとも、長谷川一夫ならぬ今時の俳優では無理か。

脚本も低調と言うより、全くなってない。名物番組の有終の美を飾るにはあまりにもお粗末なホンである。二時間を持て余し、妙な二段階に分けた構成も駄目なら、一ヶ所と言ってクライマックス、「ここ!」というべき白眉がないのに至ってはテレビ時代劇の依って立つべき「予定調和」を全く無視した作りであり、これを「新しさ」などと思っているとしたら勘違いも甚だしく、黄金時代を築いた東映時代劇の流れも、かくなり果てしか、と嘆ぜざるを得ない。

役者のお粗末なのは言わずもがなである。
そう言ってしまえば実も蓋もないが、顔が小さ過ぎて子供っぽくて仕方ない。

時代劇にはキリッとした所が不可欠であり、それは踊りの稽古、つまり場面場面で型をつける技能が不可欠だがそれもない。
音楽まで変にソフトなのが沈滞ムードを醸し、盛り上がらない。

里見も押し出しは立派だが、東野黄門の庶民性、西村黄門の小兵ながら立派だった格調からはほど遠く、佐野、石坂両人をさほど悪く言うほどの資格は無い。

むしろ、ひばり、錦之介、千恵蔵、右太衛門を相手にして来た結果がそれか!と言うのは厳しすぎだろうか?

しかし、もっと言えば東野も西村も、黄門様とすれば完璧とは言えぬ。
何しろ我々は月形龍之介という大本尊を知っているのだから。
あのリアリティー、「天下の副将軍」とはこうあらねばならない、という真実味と貫禄、そして清貧と言ったら言い過ぎだが、間違いなく酒色に溺れてはいない、日頃からデトックスされ切った痩躯。

何よりも顔つきの厳しさが、水戸黄門の命である。その点に於いて月形は別格中の別格であり、その後の役者とは一線を画す。

水戸黄門とは何か?

それは庶民の抱く理想の権力者像であり、そんなものが果たして実際に存在し得るかどうか分からぬが、いると思いたいし、いて欲しいと思うからこの番組は成り立っていたのである。

役者も落ちたが政治家はさらに堕ちた。
つまり、身を捨てる覚悟も無いクセに、やたらと「命を懸けて」と軽々しく発言する政治家ばかりになった今日(本当に死んだのは大平ただ一人である)、この番組は一般大衆薬たり得なくなったのである。

「後から来たのに追い越され」とは、天地が引っくり返ってもならない現代である。

ただただ「泣くのが嫌なら、さあ歩け」という他はない。
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