四月の記

携帯の写真箱が常に一杯なので、新しい写真が撮れない。
毎晩酔っ払っているので作文も覚束ない。
しかしどこかでケリをつけなくてはならない。
ことに四月は色々あって、仔細を書けばそれなりのモノになる事どもなれど、いささか時間が経ち過ぎた。
よってとりとめもなく書いては屠る写真供養。


まずは一日、長い出張に出掛ける朝の、うちのマンションの今年の桜。白亜の城をバックに咲き誇る姿は健気であり、何時如何なる時代であろうとも、長旅の前は不安がもたげるものであり、間違いなく今度帰って来た時、この桜はもう今日の桜ではない、と言う無常観が、私をとらえて離さぬのである。

二日は京都の夜。気心の知れた仲間と楽しき夜。


白アスパラはすっかりポピュラーになったが、私は正直「こりゃ美味い!」と言うのに当たった事が無い。
多分これは、ホワイトアスパラという食材と、それを供している我が国飲食店のノリの違いの為ではないか?と私は睨んでいる。
つまり、ホワイトアスパラなんというものは、もっと洋食(なんちゃって洋食ではない)が生活に根ざした土地で、しごく気軽にパクパク食うべきものではないか?という事である。
これについて、岸惠子が重要なエッセイを書いている。
岸が在仏の折、川端康成がやって来てもてなした。その時、川端は何処で覚えたものか、パリジャンのごとく手づかみで白アスパラを頬張って見せ、その様はどんなフランス人よりフランス人らしかったと言う。
あんなモノ、ナイフフォークで食っても美味い訳が無い。


次いで活きのたこを見せられる。
「手を出して 足をいただく 蛸ざかな」(由良之助)
洒落たものである。

三日は上七軒のおどり。


「市」のお母さんがお弁当を作っていてくれる。二色のおむすびに玉子焼きとウィンナー。まことに無駄の無い、絶妙の折詰である。おまけに紙袋は萬亀楼、割箸は吉兆である。ここが、ここが味噌である。分からぬ者には一生分からぬ、本物志向と洒落の間。


四日は歌舞伎若手を連れ銀座の蕎麦屋。ここにしか無い太打ちの田舎そば。私はこれがたまらなく好き。これはのどちんこで食う蕎麦である。

六日に一回高知へ帰り、八日に又々京都へ。
この日は上七軒で「さかさま会」。元芸妓や料理屋、菓子屋の主人や女将が拵えをして舞台に立つ。


病を得てしばらく元気の無かった「市」のお母さんが、厄落としを兼ね三十年ぶりに芸妓姿で綺羅を張る。こういうのを「昔取った杵柄」と言う。
芸妓なんというものは、第一に「しゅっ」としていなければならない。もたついたら終わりである。


夜は宮川町へ。えみちゃんと私の「呉服屋ごっこ」も一つの芸域に達した感がある。
この日はカメラが回っているので完全な「やらせ」だが、普段も半分以上このままである。


帰って高知で「石松」へ。大将が玉子をハート型にして笑かす。


〆は「にゅうめん」。これがこの店での私の〆の定番である。

十四日は藤間流宗家勘十郎さんの結婚パーティの為またまた上京。翌日は二度目の演舞場忠臣蔵を見てから京都へ。


明けて十五日は裏千家の宗家研修。裏千家学園の敷石の上に桜の花びらが散り敷く様が美しい。
昼休みにちょっと歩くと、観光客も誰もいない寺に素晴らしい桜が咲いている。


美明院なる塔頭では庭の枝垂れが塀の内と外にまたがって見事である。人ごみに紛れずとも、本来の、しみじみとした花見をする事は出来る。


宗家の兜門をくぐり、数々の茶室を拝見する。毎年初釜の時テレビ、新聞で見る「咄々斎」が意外に小さいのに驚く。その後大徳寺金毛閣を見学。


今日庵の若い職員さんが、鍵善の包装紙にある様な昔式の大きな鍵で、難儀しながら扉を開く。中には利休像や長谷川等白の龍の天井絵。残念ながら内部は非公開ゆえ、アップは出来ない。最後に利休居士と千家代々のお墓に参って研修は終了。


その日の内に帰る予定であったが、何故か宮川町で「チーム美馬」全員集合となる。ちょっとないくらい、皆ええ顔してる。


帰って来たらマンションのもう一つの桜が満開で迎えてくれた。八重の花びらのたわわな美しさもさることながら、緑の若葉がもうそこまで来ている初夏の訪れを感じさせる。

人も花も 咲きては散るる 夢幻かな 今日の姿は 明日は無しとぞ
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