駅前中華

この世に幾千幾万の「めしや」があるか、私は知らない。

実店舗だけに限っても無限であろうに、その上、「用心棒」の東野英治郎のめし屋や「流れる」のつたの家に出前して来る中華そば屋を勘定に入れた日にゃ、まさに無尽蔵であろう。

しかし、メシ屋を語るという事はそんな「名作の中の架空の店」をも込みにして「メシ屋とはかくあるべし」という思想があって初めて成立する行為だと、私は思っている。
そうでなければ、それが背後に無くては、書く意味はない。
ただの「あそこが美味い、ここが不味い」という話なら言うに及ばぬ。
少なくとも私にとっては。

日々の食逍遥の中で、絶対嗅覚、とでもいうべき触角が蠢く事がある。
この店は久々にそれを感じさせた。

年に一度お邪魔するかしないかの目黒のお客様宅の最寄駅、学芸大学駅前にその存在感を示す中華料理店「二葉」。
前回初めてこの駅に降り立った時、私はすかさずこの店に「メック」を入れていた。


己の路地に入らぬ者の視線をも捉えて離さぬ真紅のテント。中華人民共和国。毛沢東、周恩来、胡耀邦、趙紫陽。林彪、江青、四人組。ちなみに私は小学生の頃、江青が好きだった。

前回は飯どきではなかったので已む無くスルーしたが、今日は午前の仕事。終われば丁度昼どきである。
傘が飛ばされそうなほどの、春の嵐の吹きまくる中、城門に辿り着く。


時代がかったショーケースには微妙に隙間を開けて蝋細工が並んでいる。もう失神寸前である。

時分どきとて、次々に地元常連らしき客が吸い込まれて行く。これで私の腹は固まった。

ガラリと引戸を開けて店内へ踏み込む。威勢の良い歓迎の声で迎えられるかと思いきや、思いのほか広い店内を一人で切り盛りしているネエさんは厨房に向かってあれこれと注文を通していて、私には気が付かない。駅前飯店ではあるが、ここには森繁・淡島コンビはいない。

じっと辺りを見回し、おのれの席を選り定める。
結構混んでいるので一人で座敷に上がるのも憚られ、やや頭髪の薄くなった会社員風の親父の前に相席す。豊富な品書きを手に心乱れる内、親父の前に「肉野菜炒め定食」と思しき一盆が運ばれて来た。それを見た瞬間、私の予想は確信に変わる。

「この店はイケる」

庶民の代表と言ってもいい「肉野菜炒め」の、そのセンスと良心がここに結実した、見事な豚肉の盛り上がりであった。量の事ではない。その包丁加減の事を言っているのである。

私は一瞬迷い、「五目焼きそば(やわらかい、かたい)」と書かれているのを見つけて又ぞろグラっと来たが、ネエさんに聞くと(かた)は揚げだという。それなら要らぬと天の雷を受け、すわ本道の「半チャンラーメン」を推挙した。
待つ間に周りの客の食い物をツバを鳴らして観察する。

やがて彼(か)の嬢が、当然何の前触れもなく、ダッとその盆を私の前に突き出す。


正しく薄醤油色のスープ、余計な物の入らぬ、チャーシュー、メンマ、ナルトの黄金トリオ。そこへ「私なんかお邪魔でしょうが」と言わぬばかりの風情で寄り添っている海苔一枚。これが仮に、二枚三枚と入っていたら艶消しである。どうしても、一枚でなければならない。

「桐一葉」とか「梅一輪」てのはあるが、「海苔一枚」にも風情はあるのである。

これが全体を〆る。締めまくる。

湖水の藻の様に揺蕩う麺がまた、堪らぬちぢれ具合である。コシがあると同時に、しつこからぬツユを思う存分掬い上げる。

私は一口啜った時、「これですよ、これ!」と心中叫んだ。
鶏ガラと、塩、醤油、それに正しい形で鈴木さんが参加した戦後日本食の原点たる味。

私はそっと汁を掬う。

美味い、何処よりも美味い。

チャーシューに挑みかかると、これも又、畏れ入りました、の旨味と歯ごたえ。

やおら炒飯に忍び寄る。見た目は色薄でアッサリそうだが、これはちと調味料が過ぎたる加減。しかし、駅前の大衆店であり、ラーメンのスープで飲み下す相乗効果を考えれば、このくらいは許容範囲である。

ラーメン、炒飯、ラーメン、炒飯を繰り返し、「もやし炒め追加しよっかなー?」と迷いながらも、この勢いを止めるのが惜しくて一気にカッ込んだ。


満足。余は満足じゃよ。レンゲの文字さえ愛おしい。

こんな店に日夜通勤通学の途次、好きなだけ通えるこの街の人々を、私は心底羨ましいと思う。この様な店は東京の場末を巡ればあちらこちらに存在するのかも知れない。しかし私はこれまで幾多の駅前中華に飛び込んではみたが、このグレード、王道感に出逢った事は無いし、また主に活動の拠点たる銀座界隈では、ラーメン屋というラーメン屋はすべて廻ったが、私の喉を唸らせる店には遂に行き当たらなかった。(強いて言うなら今は無き「味の一」、そして屋台に一軒のみ)
私にとってはまさに「大発見」の一軒である。

たかが、ラーメン如きで何を大仰な、と思う向きには縁のない話であるが、私はこうして自分の人生に「生きて行く為の杭」を打っているのである。

場所柄ゆえ「いきつけ」にはなりにくいが、この店に行きたい為にあのお客様を訪問しよう、そう思わせるほど、私には恋しい店である。
たまにしか逢えないけれど、逢えば夜通し語ってやまぬ友の如く。


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