わたしのベル 第三章

仮に昭和四十五年生まれ以降の、ある学校のある学年を取り出して「あなたは山田五十鈴を知っていますか?」というアンケートを取ったとしたら、間違いなく我が土佐高等学校64回生は日本中で群を抜いているだろう。
否、だろう、ではない。これは100%断言出来るのである。

五十鈴熱に浮かされていた私は、日夜その美しさ、芸境の高さ、女優としての比類なさを校内で説いて回った。しかしもちろん、同級生はそんな事を聞きに学校へ来ているのではない。
皆一様に、大学へ入り、一流企業への就職もしくは医師、経営者への道を目指し、将来の安寧を求めて来ているのだ。そんなところへ、脇道に逸れたもいいところの、明日の事など「知らぬ顔の半兵衛」よろしき遊蕩三昧孤児。まったく腐ったリンゴや蜜柑の例えの如く、真っ先に排除されるべき危険分子ではあった。

が、そう思うのは今日の後知恵で、当時は五十鈴原理主義であるから、まったく頓着しない。
それに、同級生三百三十人の中で、私の酔狂に付き合って道を誤る様な変わり者も、もとより居ぬのである。

しかしながら、昔の共産主義の様に「シンパ」はいた。

卒業時、サイン帳の「土佐高へ入って良かった事」という設問に「美馬に出会って五十鈴十種を覚えたこと」と書いてくれたT君。彼はのちに自治大へ入って僻地医療に身を捧げる。
「五十鈴十種」というのは山田の当たり役十本をファンのアンケートを基に選んだ謂わば十八番で、香華、狐狸狐狸ばなし、女紋、女坂、淀どの日記、千羽鶴、菊枕、たぬき、しぐれ茶屋おりく、三味線お千代、の十作である。
休み時間や放課後に、これを題目の如く唱え、折伏して回った。

そして七年に及ぶ在校中、一貫して「美馬可愛いや」の恩愛を注いで下さったH先生。この先生は途中から「美馬よ。ひばりのあの歌のあそこはこれこれでええかねえ?」などと逆質問を下さり「弟子越し」の様相を呈した。周囲の人にも「僕は美馬の弟子やき」と戯れておっしゃった。

また、中1から今日まで付き合いの続くKはある朝「美馬!ゆうべ鶴瓶がラジオで凄いこと言いよったぞ」と言う。聞けば鶴瓶は「こないだ凄い芝居観たねん。日本を代表する大女優三人の」と言い、トークの相手が「誰々?」と聞くと「誰と思う?」ともったいぶる。相手が「○○(そこそこの大女優の名)?」と言うと「そんなんちゃうちゃう!もっと大物や!」と答える。さらに二三の女優の名前が上がった後「分からんやっちゃなあ。山田五十鈴、杉村春子、乙羽信子やがな!」

これを聞いたKは「これをお前に言うたら喜ぶろうと思うて」という顔をして私に伝え、当時高校生に人気のあったDJ鶴瓶の奉り方を聞いて「お前の崇めゆう山田五十鈴ち凄いがやねや」と解したのである。

私はこの時から鶴瓶に大恩を感じている。故に、数年前、祇園の有名なお座敷バーで鶴瓶に遭遇した時、厚く礼を述べた。鶴瓶師匠はテレビのままの実直さで、嬉しそうに「ほうほう。フーン。そうでっか。」と話を聞いてくれた。

Kはもう一つ、私に重要な情報をもたらしてくれた。やはりラジオで(永六輔じゃないが、ラジオはやっぱり素晴らしい。テレビや雑誌で出ない本音、本性がポロッと出る)当時人気絶頂のユーミンが、あの松任谷由実が「私は美空ひばりさんの様にはなりたくないんです。山田五十鈴さんが理想なんです」と言ったという。

私はひばり信者でもある故に複雑だが、この真意をいつかユーミンに問い糺してみたい。ずっと、そう思って来た。そろそろその時であろう。

こういう「特殊理解者」もいたが「よう分からんけど、こいつの言い募りゆう事には真実がある」という消極的理解、または本然的許容を示した多くの友。

これらがあって私は高校生活を生き延びた。

「おい美馬!ゆうべ山田五十鈴が出ちょったぞ。どこがええがな?あんなババア」と口汚く罵ったSとは、今も同窓会の事で頻繁に連絡を取っている。

今思い出したが、中学一年で下宿したYさんの自室で、本棚の一角を神棚となし「五十鈴大明神」と名付けて(今なら五十鈴観音とするところだが)、本物の鈴、三味線の撥などを飾り、祀っていた。高四の頃には、部屋そのものが展示室となっていた。

つまり私は中高の間ずっと夢を見ていたのである。

今現在に至っても、その路線に大きな変わりは無い。

が、山田五十鈴の亡くなった時「ニュース見て、とっさに美馬のこと思い出した」と何年、何十年ぶりに連絡をくれた同級生が幾人もあった。

高校時代の放埓は、決して無駄では無かったのである。
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