わたしのベル 第四章

私の山田五十鈴詣では続いていた。高校二年生からは、新たに杉村春子、中村歌右衛門が加わり、この三人の舞台を観る事が一年の生活サイクルの基本となった。

杉村は「欲望という名の電車」、歌右衛門は「籠釣瓶」という、ともに代表作から入ったから堪らない。もう「病膏肓に入る」とはこの事である。

この二人の名優の楽屋へもすんなり通され、最晩年までお弟子や付き人とも馴染みとなり、手厚く迎えられた。

その点で言えば、最後まで楽屋通いに気の抜けなかったのは山田である。

名門劇団の事実上の女座長、会社も頭が上がらないほどの歌舞伎界の絶対君主に引き比べ、山田は大興行会社の「商品」としての位置づけがあった。
熱のこもり過ぎる青年ファンに対し「何かあってからでは遅い」と過剰反応する人も周りにいた。
また山田本人も、一途に思い詰める私の熱さを警戒して、杉村や歌右衛門の様な気の許し方をしなかった。それがさらに私を「なんでもっと心を開いてくれないの?」」という不安、焦燥に駆り立て、一部の人からは「この子は危ない」と見えたのであろう。とんでもない誤解から、あわや楽屋出入り禁止、という危機的局面もあって、一瞬目の前が真っ暗になったが、幾人かの理解者の取り成しもあり、何とか事なきを得た。

やがて高校を卒業はしたが、学業を完全に放棄していた私に入れる大学は無く、しかし何としても山田のいる東京へ行かねばならない。そこで潜り込んだのが、当時購読していた演劇雑誌「テアトロ」に募集の出ていた「東宝現代劇養成所戯曲科」である。養成所と言ってもこれは週二回、夜二時間の謂わば「講座」であって、他の時間はたっぷり余る。
そこで、これまた当時読んでいた「演劇界」に載っていた国立劇場のアルバイトを見つけ、無事採用となった。

ここからは、明けても芝居、暮れても芝居の「耽劇」の日々である。
戯曲科では決して良い生徒ではなく、まあこれは親に東京に出してもらう為に入った様なものだから、全く身が入らない。そもそも戯曲を書く様な才能も無い。

生活の中心は国立劇場にあった。アルバイトゆえ上限なく働く事が出来、正職員が早番遅番で交代していても私は十二時間の通し勤務をする事もしばしばであった。
ここでまた、歌舞伎や文楽、日本舞踊といったあらゆる古典芸能への世界が大きく広がり、今に続く染五郎との出逢いもここに始まる。

山田との関係も、私が「危ない高校生」だった時とは大きく変わり、第一、戯曲科への入所の折には山田が「ずっと通って来てるファンの子だから」と推薦もしてくれ、またアルバイトとは言え国立劇場勤務という正業で銭を稼いでいるのを見て「あの子も少しは落ち着いた」という安堵からか、何となく物言いも変わり、時には杉村春子に対する伝言を頼まれたりする様にもなった。

この二年間は私にとって生涯忘れる事の出来ない日々である。兎に角、国立で稼げるだけ稼いで、それを全て他の劇場で費やす。基本の学費と家賃、食費は親に仕送りして貰っていたので、アルバイト代は思う存分に芝居に注ぎ込めたのである。この時期、山田の芝居は一ヶ月最低五回、杉村と共演した「流れる」などは三日置きに観た。

どんどんどんどん演劇界に知り合いが増え、このまま行くと、もう芝居の世界からは離れられないだろうと、我人ともに思うのめり込み方であった。

ところが、私は上京二年目の終わり、アパートの更新を迫られた折、あっさりと帰郷を決断するのである。
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