MASAYA


十日に及ぶ出張から帰って久々に朝寝をし、ようやく起き出して昼飯を食べに寄った行きつけのラーメン屋で、高橋昌也の訃報を知る。

とっさに、享年八十六か七、であろうと思ったが意外や意外、まだ八十三歳であった。大して差は無いと思うだろうが、そうではない。私はある程度以上の役者の年齢については、いつ問われてもほぼ二歳以上の誤差なく答えられるのを長年の矜恃としており、三つも四つも間違う事は稀である。

これは他でもない、高橋の元妻である加藤治子との年齢差を失念していた為である。加藤は私の十本の指に入る贔屓女優であり、その年齢は常に頭に入っている。そこから逆算して八十後半と思ったが、迂闊だった。八つも年下だったとは。

それに加えて、杉村春子と山田五十鈴、また淡島千景(このあいだ、染五郎が新作歌舞伎で着ていた衣裳がステキで、どこか懐かしい気がするので聞いたら「淡島さんの」と、嬉しそうに、あなただったら通じるでしょ、と言う顔をして言った)、高峰秀子、乙羽信子、越路吹雪ら黄金の大正十三年組(京マチ子のみ健在)が相次いで没し、私の役者年齢算出の起点となる道標を失って、この頃とんと勘が鈍っている。
以前はある役者の年齢を問われても「山田五十鈴の五つ下だから何歳!」と即答出来たものである。

話は逸れたが高橋昌也である。

この人の特質は言うまでもなく、小柄でありながらバタ臭く(大柄でバタ臭い役者はいくらもいる)ハイカラな雰囲気、そして上流階級のエレガントさを湛えた中年男の、半ば猟奇的な色気であろう。
私がテレビドラマを見始めた頃から、この人は白い背広やレースのシャツを着て外国たばこを燻らしていた。

そう。我が国の男優の中で「最も外国たばこの似合う役者」

これこそ私が高橋昌也に捧げる戒名である。

上流とか、優雅とか、貴族的とか。そういうものが皆無になってしまった今日、芝居の中だけでもそれらを観たい、体感したいと思っても、やっているのが現代の役者である。年々それは不可能ないしはエピゴーネンとなる。
伝統演劇ばかりが保存の対象、残すべき文化の様に捉えられているが、絶滅の危機に瀕しているのはむしろ現代演劇の中の、ある種の「風(ふう)」である。

近過去こそ最も再現困難、これはあらゆる表現世界の常識である。

高橋が役者稼業を休止して取り組んだ銀座セゾン劇場の芸術監督の仕事も、新しい世代の演出家が台頭して来る予兆の中で、「世間的には」決して目覚ましい業績を挙げるには至らなかった。

だがそれは、高橋の演劇人としての欠陥や誤謬であるまい。
本来の、「高踏」とまでは言わずとも、一捻りした、洒落の効いた、そして美しい芝居を観る、余裕のある観客は、すでに絶滅しかけていた。

セゾンという小屋は、東京の現代劇専用劇場としては私の最も趣味に合った空間であり、杉村春子に初めて面会した、思い出の場所でもある。しかし、劇場の本体部分であったホテル同様、昨冬亡くなった堤清二氏の高級志向はすでに時代から取り残されつつあった。

晩年の堤に日本橋の蕎麦屋で相席になった時の事は忘れられない。私はその時、彼の筆名である辻井喬の傑作「父の肖像」を読みかけていたが、一心不乱に縦長のメモ用紙に何やら書き込んでいる姿を目の当たりにして「辻井喬が執筆している最中に声を掛ける事など出来ない」と判じ、ただただ見守り、見送った。

しかしながら、文学を手にした兄も、手にしなかった弟も、ともに経済界の表舞台から追放された。

そして、セゾン劇場は開場当初の華々しい栄冠を手放し、ル・テアトル銀座と名を変えた。

同じく鉄道、デパートを擁する東急グループのシアターコクーンが開場以来今日まで盛況を続けているのと比べると、強盗慶太とピストル堤の因縁の戦いは、ここでも明暗を分けたのである。

そして、高橋は芸術総監督業などという肩書から解放され、一役者に立ち返った。

久々に我々の前に姿を見せたその風貌たるや、ロマンスグレーを遥かに通り越し、山羊の様な顎ひげを蓄えた、老仙人になっていた。

題名も忘れたそのドラマを観た直後、親しくしていた岸田今日子に会い「この間、高橋昌也さん久々に出てましたね」と言うと岸田が「そうなのよ!」と反応し、

「あたし最初誰だか分んなかったのよ、あんまり変わってて」

「でもね、あんまりいい芝居するんで、誰この人?と思ってね」

「あたしも長い事役者やってるけど、こんな役者知らないわ。どこの劇団の人かしら?なんて呟いてたら、ヤダ!マサヤじゃない!って大笑い」

言うまでもなく高橋と岸田は文学座、雲、円と三つの劇団に所属した古い演劇仲間であり、元妻の加藤治子と岸田は公私ともに親しい。

その今日子さんが暫くのあいだ気が付かず、未知の名優を発見したと思って真剣に画面に食い行っていた姿を想像して、可笑しくて堪らなかった。

「でもね、癌らしいのよ。だからあんなに痩せちゃって」と会話は続いたが、そう心配していた今日子さんの方が先に逝ってしまうとは、どうして想像出来よう。

それから十年以上も経って今日の訃報である。
あの時「余命幾ばくも無い」としか見えなかった姿からはとうてい信じられぬ、その後のながらえ。私は寡聞にして知らなかったが、ごく最近まで映画出演も果たし、黒柳徹子主演舞台の演出も準備中だったと言うから、実に大往生と言うべきであろう。

あの時今日子さんは「でもね、昌也って昔はあんなにいい役者じゃなかったのよ」とも言った。

これは今にして思えば、高橋昌也の持つ独特の個性を生かし切れないまま、日本の新劇が終わった、という事を意味している。

最晩年のあの、老人斑に覆われ、頬は痩せこけ、落ち窪んだ瞳の中に輝く、何と神々しく、気高い魂か。

間違いなくあの目には「精神の自由」がある。

死去後のネット書き込みで、高橋と加藤嘉を同系に論じている輩があったが、見当違いも甚だしい。二人の間には「かつて文学座に所属した」事と「横溝正史シリーズに出演していた」という以外、およそ共通点も類似点も無い。

最も日本人的なものを全人的に演じた役者と、日本人的なものから離れて独自の足跡を残した俳優をいっしょくたにするなど、もっての外である。

これは、「超演じる者」と「超演じない者」の差と言ってもいい。

晩年の高橋の風姿は、熊谷守一に似る。

取り留めもなく追悼の筆を走らせたが、救いは三十八歳年下の、最後の夫人による近影がブログに多々アップされていて、これが何とも微笑ましく好もしい。

個人的な付き合いこそ無かったが、マサヤとハルコの遠き春に思いを馳せながら、艶福家と言っていいこの優の最晩年を垣間見て「いい人生だったんだな」と腑に落ちて、何故か「目出度い死」という言葉が浮かんで来てならないのである。

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