当世乱倫女教師

別ににっかつロマンポルノの話ではない。

先日Facebook上で、さる教員が自分の子供の入学式に出席する為に、自分が担任を受け持つ生徒の入学式を欠勤した、という事件を知った。

その教師にも吃驚したが、もっと驚いたのはその件に関する擁護派の意見である。
意見、などと言うにも値しない、私に言わせれば「屁理屈」そのもの。
曰く「(担任する)子供たちに意見を聞いたら、先生!自分の子供の入学式に行ってあげて、と言うに違いない」だの「自分の子供の入学式にも行かない様な先生に指導を受けたいと思うだろうか?」だの。

日本人もここまで堕ちたか、と深く嘆ぜざるを得ない。

そもそも、入学式という儀式は誰が誰のため、何の為にやるものか?

ここがズレているからこんな阿呆な事をホザく輩が出る。

入学式とは、これからその学舎(まなびや)で三年の月日を送る子等を、指導者たる、庇護者たる教師が迎え「お師匠さま、今日からお頼み申します」と挨拶をし、教師がそれを祝い、迎える儀式である。

つまり、生徒が主役で教師はその相手役、いわば準主役であって、父兄などはエキストラに過ぎない。

どこの世界に、準主役の舞台を放っぽって、エキストラの仕事に出掛ける役者がいるか?

しかも、この教師の子供は高校生だと聞いて、私は開いた口が塞がらなかった。
今どき、親が入学式に来ない(しかも歴とした仕事の為に)と言って親の愛情不足に苦しむ、なんて高校生がいるか?
親が来たら鬱陶しいのが、健全な若者である。

もっと言えば、親が仕事の為に自分の入学式に来ない事を、むしろ誇りに思わぬ様な子は、ロクな者にはならない。

親子の愛情などというものは、そんな底の浅い、低レベルな物差しで測れるものではない。
おそらく、こういう輩は優れた文学などは一頁も読んだことが無いのであろう。

幸田文、向田邦子、山口瞳、佐藤愛子、辻井喬を読め、と言いたいが、読んでも分からないのだから付ける薬が無い。

権利の拡大と義務の縮小は戦後日本の一大病巣ではあるが、物事の理非曲直は時代が変わってもそうそう変わるものではない。

私は何より、この女教師が、こんな事をしてこれから先、自分の学級の運営に差し支えが無い、と考える無神経さ、横着さに憤慨を禁じ得ない。

倫理とか責任以前に、己が平気なのか?

許可した校長もどうかしていると思うが、当人は入学式に出られない事への詫び状を、生徒宛に書いていたそうである。これも、私なぞには到底理解出来ぬ事である。

これから最低でも一年間、上に立ち、慕われ、庇い、守り、教えるべき生徒に、初日から「借り」を作ってどうする?

この「貸し借り」の感覚こそ、現代の日本人に最も欠けているものであり、取り戻さねばならない金科玉条である。

今日、私はこれを、高知市の仮寓に近いラーメン居酒屋で書いている。
ここのお母さんは私が一年前、酔って勘定を済ましての帰りがけ、二千円の釣り銭を「お母さんにやっちょいて」と祝儀のつもりで置いていったのを、一年の余も、後生大事に「美馬くんが来たら返さないかん」と肌見に付けていたのである。
そして昨日、店に電話を掛けて来て「返さないかん」と言う。
あまりにも義理堅い、律儀な、日本人ここにあり、という典型の人間である。

私はあらためて「お母さんの笑顔に切った祝儀やき、戻してもろうても入れる先がない」と目出度く納めてもらった。

この遠慮と感謝、己の仕事における「ひたぶるな」奉仕。これが、全世界が日本人を尊敬おくあたわざる民族と心中奉ずる美点なのである。
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