贈り物について
今テレビを見ていたら、大河ドラマ龍馬伝の影響で、高知市の「龍馬が生まれたまち記念館」の入場者が三十万人を突破し、節目に当たる三十万人目の夫婦に市長から記念の花束が贈られた、というニュースをやっていた。
私の癇に障るまいことか。役所の仕事というのはどうしてこうなのか?観光施設に来る人というのは大概県外客である。旅行先で花束なんかもらっても、嬉しいより荷物になるのが先で、ありがた迷惑の手本みたいなもの。現にこの夫婦は山形県からの観光客であり、これから観光地をあちこちするであろうに、まぎって(荷物になって)仕方ないではないか。
それに、その日のうちに家路に着くかどうか分からず、所詮その日の旅館かホテルにもらってもらうか、たとえその日に山形まで持って帰っても花はぐったり塩折れてしまうだろう。こういう事を何の疑いもなくやらかす人間をおバカという。しかもセンスのカケラも感じられない、私の見たところ予算三千円の、サイテーの花束である。今時こんな花束どこで売ってんの?といいたくなるような、心も何もこもってない、いわゆる花束上げました!って言うシチュエーションの為だけにある、クソ花束。私はああいうのを見ると、虫酸が走ります。
二十歳の頃、憧れのお姉さんが退職する日、一花一花選んで作った渾身の花束を贈った私にとって、あんな物は花束ではない。花束の姿を借りたただのジェスチャーである。記念品をやるならなぜ、高知の特産品を、それも宅配付きでやらないか?つまりそこにはもらう人の都合という発想が皆無だからに他ならない。こういう独り善がりな人間は役人だけではない。
昔私が東京のアパートを引き揚げて来る時、三人の友人を引っ越しの荷造りの手伝いに頼み、昼間は仕事だったので、慰労を兼ねて私のおごりで先に夕飯を食べ、それから私のアパートへ向かうという段取りになっていた。すると麻布の高級和ダイニングのメシをペロッと平らげた同級の女が、だしぬけに「用が出来たので手伝いは出来なくなった、ごめんー」と言って花束を差し出した。「あっぽろけ」という、開いた口が塞がらないという意味の土佐弁があるが、この時ほど心底あっぽろけだった事はない。手伝えない事が分かっていて、いけしゃあしゃあとメシだけ食べる図々しさもさることながら、今から花瓶も何もかも片付けて荷造りし、明日の朝アパートを引き払うという人間に花束を持って来るという無神経には、人種が違うとしか言い様のないショックを覚え、私はその花束を高田馬場の駅のホームの屑籠に全身の力を込めて叩き捨てた。
どうしてこう思いやりの無い事が出来るのか?自分が恥ずかしくないのか?
この女はその後私の結婚式の時、だめ押しの不祥事を起こして私の名簿から消えた。百万の富は得たらしいが、何と哀しい、度しがたい魂ではある。
人に何かする時、自分が試され、淵瀬に立っている事を知らぬ者、それは愚か者である。